私と小鳥とセブンティーンと鈴と「SEVENTEEN 」と

こういう形にするか迷ったが、これも今の私の選択だと思うことにした。

以下、読むにあたっての留意点です。絶対にラウンちゃんのナレーションで読んでください。

ラウンちゃん

「今日は僕たちを見に来てくださり、本当にありがとうございます。この日記みたいなよく分からないものを書いたのは1年前だか2年前だか5年前だか8億年前だかなので、かなりイキってんのは大目に見てくださると僕たちも本当に幸せです。あと、主語は全部『私』こと『私』であり『私』以外に他ならない『私』なので異論は知りませんご了承ください。異論異論ワンイロン!次の曲は、Completeです。ありがとうございます。」

 

 

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つい先日、20歳になった。そんなのいつもの変わらないし桁が1つ繰り上がっただけで何ともないと思いつつ、心の奥底はそうもいかないらしい。うわ〜!合法だ〜!と、こんなときだけ浮足立つ自分もいい加減懲りないなと思う。完全に癖だ。今さっきだって、せっかく完成させたこの記事を浮かれて削除した。救いようがない。

 

20は青々しい数字だと個人的には思う。成人という言葉に置き換えてしまうと、お酒とかお酒とかお酒とかのイメージが強くてなんだか黒いしがらみも感じられるが、私にとって20とは、脆くて、青くて、儚い青春だ。平家物語も言うように、この世はすべて諸行無常である。その中でも20は特に風の前の塵に同じなのだ。とてつもなく刹那で、キラキラしていて、青い春なのだ。

 

そして私はこの手のコンテンツに滅法弱いらしい。なぜかは分からないが、一瞬で過ぎ去ってしまうものに価値を見出しがちだと最近気が付いた。

ちょっとこじつけだけれど、この新たな気付きと、20歳という人生における圧倒的通過儀礼を迎えたこと、学生生活が折り返し地点に達したこと、SEVENTEENが一区切りついたことを期に今までの自分と向き合っておこうと思い、筆を取った次第である。

 

 

話を戻すが、私が隠れた"青春廚"だと教えてくれたのはSEVENTEENである。良くも悪くも彼らは私の青い春だった。

SEVENTEENがアッキンダでデビューした2015年、私は彼らと同じ17歳だった。初めの頃こそ、その眩しさに目を瞑るだけで胸がいっぱいになった。横アリでセイザネムコンを見ても、画面の中の彼らを見ても、眩しくて目が潰れそうだと大真面目に思っていた。

しかし、その感情は次第に「同世代」のジレンマへと変わっていった。なぜ同世代の彼らはこんなにも輝いているのに自分はこうなのか、「同世代」の彼らがこんなにも成長できているんだから自分だってできるはずなのに、どうしてこんなところで夢も見つけ出せずにくすぶっているのか。彼らに対して引け目を感じ、本当に毎晩泣いた。

次のエッジコンを見てもそれは変わらなかった。ステージ上の彼らは私にとってディズニーランドよりも眩しくて、夢の国の住人だった。本当に羨ましかった。いっそのこと、彼らになりたいとすら思った。彼らと同じように輝けたらどんなに人生が充実するだろうか、それがだめなら、せめて彼らを客観視したり、楽観視できたらどんなに楽だろうかと毎日思った。嬉しかったはずの「同世代」という言葉にひたすら泣いていた。今思えば、感情が湿っぽすぎて気持ちが悪い。

 

 

そんな私を横目に2017年11月6日、彼らは今までの成長に区切りをつけ、次の成長へと向かうためのアルバムを出した。『TEEN, AGE』である。中でもリダズによるChange Upは彼らの決意の結晶だった。

こんなの到底追いつけないと思った。私がこんな風になれるわけがないと思った。

でも一方でこのアルバムは、初めて私と彼らを同じ土俵へと導いてくれた。彼らも彼らなりに、今までの自分たちが作ったコンセプトに対してジレンマを感じていたから。20代故の成長に伴って生まれたそのジレンマは、まさに「同世代」の私と同じだった。厚かましいが、収録曲のひとつひとつが私と同じ意味で苦しんでいるように、次へ成長したがっているように感じられた。20そこそこならば成長に悩んで当然だと言われているような気もした。

 

 

 

そのアルバムの最後にあったウジのThanks toは私にとって非常に大きな存在になった。

 

「僕たちの曲にインスピレーションを受けてほしいわけじゃない。ただその1曲1曲のその短い時間だけでも、辛いことも良くないことも忘れて僕たちの曲に癒されてくれたらそれでいいんです」

 

泣いた。大泣きした。泣きすぎだけどこれは嬉し涙である。自分はいつのまにか、彼らの曲を、インスピレーションを受けるために、自分と比べて鼓舞するために、聴いていたのだ。彼らに申し訳なかった。それと同時に、自分と他人を比較することが、自分にとってこんなにも負担になっていたなんて、自分の視野をこんなにも狭めていたなんて、知らなかった。そもそも私は、自分は他人と比較しても何のコンプレックスも抱かないタイプの人間だと勝手に思い込んでいた。でも違った。私も普通に傷ついて、普通にストレスを感じる普通の人間だった。人と比べないという、分かっていたようで分かっていなかったことに改めて気づかせてくれたのだ。

 

 

こうして私は、言ってしまえば"ウジの言葉"という、彼らと他人、そして複雑な世界を客観視・楽観視するための理由を見つけた。「ウジがそう(いう風なことを)言ったから」という完全に都合の良い解釈をして、ああそうか、となる自分はいつのまにか芯までウジペンになっていたんだな、と単細胞な頭の片隅で思う。

とにかく、彼らが「同世代」だったからこそ、「同世代」のウジの言葉があったからこそ、20歳の私は、今後の「私なりの成長」をちゃんと見据えられるようになった気がする。まだ明確な夢は見つけられていないけど、こうありたいなというボヤ〜っとしたものは見えてきたような気がしなくもない。

 

自分たちのやりたい音楽も入れつつ、ファンに向けて「ありがとう」と伝える為のスペシャルアルバムまで律儀に出した彼らのことだ。しばらくしたらきっと「彼らなりの成長」でカムバするのだろう。自身の殻を破った彼らは、どのような成長を見せてくれるのだろうか。楽観視する理由を手に入れた私は無敵である。とにかく、私もあんまりもたもたしてはいられないので、まずは次の月曜日から私なりに成長してみせます。

 

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このあと、以上の文章よりも10000000000000000億倍キショイ文章が続くんだが、あまりにもキショイのでここには載せられない 人権を守りたい 人権は大事 坂東は英二 自民党は死ね